グイノ神父の説教


 2022  C 年

 特別な祝い日

聖人の祝い日

   
聖家族の祝日
神の母マリアの祝日
主の広現の祝日
主の洗礼の祝日

聖母マリアの被昇天


       聖家族の主日   C年  20211226日  グイノ・ジェラール神父

        1サムエル記1,20-2224-28    1ヨハネ3,1-221-24   ルカ2,41-52

 イエスの家族について私たちはほんの少ししか分かりません。福音というものは年代記(歴史書)個人の伝記ではありません。その名前が示すように、福音は良い知らせを伝え知らせるものです。この知らせはただ一つの出来事に基づいています。つまり、人々が十字架上で殺したイエス・キリストを神は復活させたと言うことです。そういう訳で、今日の聖家族の祝いの福音の個所を聞きながらそれを思い起こさなければなりません。

  確かに、この福音の個所は完全にイエスの運命をほのめかしています。イエスが12歳の時、過ぎ越しの祭りにエルサレムに来たとき、律法学者たちと見事に議論した同じところに20年後にいます。そして死刑を受けたイエスは葬られました。イエスの母マリアは昔と同じように非常に心配して、泣いているマグダラのマリアは三日間が過ぎてから、イエスを一生懸命に探し求めて、ようやく復活されたイエスを見つけました。そして、イエスが昔に言った言葉を繰り返していました。「神である父の元へ行く」(参照:ヨハネ20,17)、「私は自分の父の家にいるのは当たり前だ」(参照:ルカ,49)と。イエスの出来事を述べるルカは私たちの目を他の所へ引き寄せました。というのは、イエスはナザレのヨセフの子ではなく、父なる神の子です。この事実は復活の時にようやく啓示されるからです。

 イエスの家族が模範として私たちに与えられている理由は、聖なる家族であるからだけではありません。むしろ、次々と襲ってくる思いがけない出来事にもかかわらず神に対する揺るぎない信頼を示した模範的な家族だからです。イエスの誕生、ベツレヘムの貧しさやエジプトへの逃避行のような予想外の出来事のためにマリアとヨセフは苦しみました。特に、神から委ねられた使命を果たすためには、ヨセフとマリアにとっては至難の業でした。イエスも自分を捨て、両親に従うことを学びました。イエスとヨセフ、マリアは一緒に生きることを学ぶのはとても難しいでした。神であるイエスは人間になった者として、ヨセフとマリアは神の子イエスの親として、三人がそれぞれの立場を生きる事は簡単ではありませんでした。確かに家族はお互いの教育の場所です。聖家族もそうでした。

 ヨセフは神の賜物としてマリアを迎え入れました(参照:マタイ 1, 20)。イエスもヨセフとマリアに与えられた父なる神の貴重な賜物でした。さらに、イエスにとってはヨセフとマリアは父なる神が選ばれ自分を委ねた両親であり、神の賜物でした。イエス、ヨセフとマリアはそれぞれ互いに神の賜物としてそれぞれを迎え入れることを学ぶことが必要でした。

 聖家族は私たちも彼らと同じようにするように招いています。私たちの家庭の生活は決して自分の所有物ではなく神の賜物です。神は私たちをそれぞれの場所に互いに与えたからです。家族のメンバーは互いに所有する者ではなく、ただ神が私たちに与えた貴重な賜物であるというだけです。彼らに示す愛と尊敬は、私たちの所有権を奪うためではなく、彼らの内に隠されている神秘性を発見させるためです。

 また同様に、ここに集まっている私たちも皆に与えられた賜物です。この事実についてゆっくり考えることが必要です。利己主義と無関心に陥ることのないために聖家族が 私たちにお互いを素直に受け入れる恵みを与えるように祈りましょう。そうすればきっと私たちは「父なる神の家にいる」恵みを深く味わうでしょう。アーメン。


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        神の母の祭日 C年  202211日   グイノ・ジェラール神父

              民数記6,22-27     ガラテヤ4,4-7    ルカ2,16-21

 神の母の保護に置かれているお正月のミサは、毎年祝福から始まります。「主があなたを祝福し、守られるように。主が、御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与え、平和を賜るように」と。続いて良い知らせとして「聖霊で満たされている私たちは神の子供たちである」ことを証明します。最後に、私たちが母マリアに倣って、心の中に私たちのために神がなさったことを、またこの新しい年を通して行われることを思い巡らすように招かれています。

 イエスの誕生は深い喜びの泉であり、この喜びはイエスとマリアを通して神が私たちに与える救いの神秘を悟る助けになります。イエスは私たちの救い主です。赦し、癒し、慈しみと永遠の愛で溢れているこの救いが、どういうものであるかをイエスの生涯が啓示し説明します。神の母マリアの目立たない謙遜な生き方は、神から受けた恵みをあらためて精一杯に味わい、生きるために心の中の深い記憶に納める方法を私たちに教えています。

 今日イエスと母マリアは私たちに自分たちの静かな現存を委ねます。生まれたばかりのイエスは話すことは出来ませんが、全人類を救い放するために人間になった神の御言葉です。神の子の母となってとても驚いているマリアは、イエスを見守りながら、ご自分も生まれた子どもの神秘を静かに黙想しています。ですから、私たちも神に感謝する心を捧げましょう。全人類に対する救いの計画を完成するために、神は私たちをご自分の子どもたちとなさったからです。神の力強い愛が、ベツレヘムの馬小屋の貧しさと私たちの弱さや傷つきやすさの中に、人間的な制限を通して示されています。

 私たちを救うために神は人間になりました。言い換えれば、全人類の弱さ、欠点、惨めさ、過ちなどのすべては、ご自分を私たちに与える神の特別な道になっています。私たちの弱さ、過ち、罪にもかかわらず、神はご自分の聖性にまで安全に私たちを導きます。神が私たちを愛し、救いたいということ信じるだけで十分です。幼子イエスと母マリアをゆっくり仰ぎ見ることで、山を動かし、知恵を照らし、祈りを養う喜びに溢れるこの信仰を私たちは受け止めることが出来るでしょう。


 今日の祭日に当たって、私たちに示されている神の愛、その中でも特に神が私たちのために行うことに対して敏感になる恵みを神の母マリアに願いましょう。また、私たちの信仰が喜ばしい、他の人にも伝わりやすいものとなるように祈りましょう。神の母マリアが私たちを守り、救い主イエスのそばで絶えず、私たちのために執り成しますように。アーメン。

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      主の公現の主日  C   202212日   グイノ・ジェラール神父

             イザヤ60,1-6     エフェソ3,2-35-6   マタイ2,1-12


 古代イスラエル人にはエルサレムが世界の中心であると同時に信仰の都でした。というのも神が神殿の中に閉じこもってそこ住んでいたからです。「インマヌエル」として神がイスラエルの民と共におられ彼らと共に留まるので、イスラエル人たちは特別な民でした。言い換えれば、他の国々の民は唯一の神を信じ改心して割礼を受けていない限り異邦人、あるいは異端者また敵として認識されていました。この間違った考え方はある時代においてキリスト教会の考えでしたが、こんにちでははっきりと非人間的な傾きを持っている一部のイスラム教と共産党体制の考え方です。

 神はエルサルムに全ての民を集めると宣言する預言者イザヤは、この違っている、狭い概念を揺り動かそうとしました。唯一の神を発見するなら、きっと全ての人は神の愛の契約に入るのだと預言者イザヤは待望しました。この希望はまだイエスがもたらす広さを持っていませんがほんの少しの変化をもたらしました。今日、耳にした占星術学者の物語は、この大きな変化の知らせです。神は全ての人々、すべての民の神であり、全人類が救われるように決意しています。

 そういう訳で、大都市のエルサレムではなく、むしろ小さな村の見知らぬ貧しい馬小屋でイエスが生まれることを神は決めました。また、イスラエルの社会から不潔な者として見捨てられていた羊飼いたちと嫌われていた異邦人たちが最初にイエスを見つけ、拝むことができたのも神の決定でした。占星術学者にならって、私たちも人間になった幼子イエスを捜し求めて、彼の所に行く理由は、イエスのそばにずっと留まるためではなく、新たにされて他の道を通って帰るためです。一歩一歩、確実に私たちの信仰を照らし、導くこの福音宣教的な旅路をするように、主の公現の主日とマタイの福音は私たちを誘っています。

 世の光であるキリストはすべての国、文明、そして人の心と考えの暗闇を照らします。教会が光の小さな点として世界の果てまで照らすことをイエスは望みました。「教会がある場所にキリストも一緒におられる」というのは、教会の変わらぬ格言です。神はどこにでも存在します。私たちを救うために世の終わりまで神は全人類の状態を分かち合っています。見捨てられても、迫害されてもキリストの教会はそれを証ししています。全世界を燃え上がらせるために信仰の光を決して消してはいけません。

 私たちは命の光に導かれている新しい占星術学者です。福音の良い知らせを述べ伝えながら、この命の光まで、出会う人々を導くことは私たちの使命です。確かに、自分の信仰の証しを見せないキリスト者は、真実を知っても恐れて全く動かなかったヘロデ王やエルサレムの律法学者によく似ています。宣言された生き生きとした信仰は、必ず命と光の道を開くのです。信仰を証しする人々に、この珍しい光を預言者イザヤは約束しました。「光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる・・・あなたは畏れつつも喜びに輝く」と。


 キリストの光を浴びて、昔の占星術学者と共に、神が救いたい世界の人々に私たちの信仰の黄金、私たちの祈りの乳香、私たちの思いやりの没薬を贈り物として献げたいと思います。光を浴び、心の溢れる喜びをもって主の栄光を賛美し、救い主イエスを拝みましょう。 アーメン。

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          主の洗礼の祭日  C年  202219   グイノ・ジェラール神父

          イザヤ40,1-59-11    テトス2,11-143,4-7      ルカ3,15-1621-22

 幼い時から人は他の誰よりも速く走ること、何でもよくできること、一番強い者であることを学びます。大人の社会生活に入ることは、競争の世界に入ることだからです。ヨルダン川に来た群集は洗礼者ヨハネをとても強い人と思って見ていました。皆の前で洗礼者ヨハネはヘロデ王を初め、エルサレムの司祭やファリサイ派の人々を厳しく批判していたからです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(参照:マタイ3,7)といった洗礼者ヨハネの厳しい咎めは、聞いている人々を震えあがらせ、あるいはまた彼らを興奮させました。そういう訳で洗礼者ヨハネが預言者たちの約束したメシアだと皆が思い込んでいました。

 しかしこれについて、洗礼者ヨハネはすぐに反応します。自分は一番強い人、一番偉い人ではないと証しします。「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と。同じ力をもってイエスはエルサレムの神殿で売り買いをしていた人々を追い出し、また同じ言葉を使ってイスラエルの民を指導する人たちを厳しく咎めました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」(参照:マタイ23,13)、「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(参照:マタイ23,33)と。

 洗礼者ヨハネとイエスのうちに示された力はとても神秘的であり、聖霊の力の謙遜さです。ヨルダン川で洗礼者ヨハネが聖霊で満たされイエスの前で謙遜にへりくだったように、イエスも弟子たちの前で謙遜にへりくだって彼らの足を洗いました。また自分よりも強い方が来られると洗礼者ヨハネが教えたのと同様に、イエスも弟子たちに「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(参照:ヨハネ14,12)と打ち明けました。

 洗礼者ヨハネとイエスの行動を見せながら、ルカは目に見えないことや耳に聞こえないことを見せ、また聞かせようとします。即ち、二人の内に働いている聖霊の働きを見せています。洗礼者ヨハネとイエスが受けている力は父なる神から来ています。また洗礼者ヨハネは預言者として、イエスはメシアとして神に遣わされたことを保証しています。この神秘は聖霊降臨の日に繰り返されました。イエスが本当に神の子である事実を告げ知らせるために、弟子たちはキリストの証人として、聖霊の力で満たされたのち、全世界に遣わされているのです。

 イエスが私たちの神、私たちの救い主であり、死んで復活されたイエスにおける私たちの信仰を証しするために聖霊の力が豊かに与えられています。そして、この力は私たちに謙遜の道を歩ませます。なぜなら、他の人々が自分より強く、賢く、偉大であることを信じるように聖霊は導くからです。神の息吹である聖霊に満たされた人々、彼らがキリスト者であってもそうでなくても、私たちは洗礼者ヨハネに倣って、彼らの前にへりくだることを学ばなければなりません。

 キリストの弟子である私たちは、決して他の人よりも優れたものではありません。しかし、神がすべての国の境や文明、政治体制や種々の宗教を超えて大勢の人々を通してこの世で良く働いておられることを知って、他の人よりも大いに喜ばなければなりません。ですから、聖霊が私たちにご自分を愛する力と共に識別する恵みを与えられるように願いましょう。アーメン。

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            聖母の被昇天の日  C 年 2022815日  グイノ・ジェラール神父

              黙示録 11,19; 12,1-6,10     1 コリント 15, 20-27    ルカ 1, 39-56

 聖母マリアについて聖ベルナルドは、次のように言いました。「マリアについて話しても、話しても非常に足りないです」と。聖母被昇天の主日は喜び、希望と光の祝い日です。マリアが天に入る被昇天の出来事は天を開くと同時に地上に神の喜びと光を注ぎ降ろします。この光は私たちを永遠の愛と幸せに引き寄せます。マリアの内に光り輝き、マリアを天に導くこの光は復活の光です。罪死をもたらしますが、罪のない状態と罪に対する戦いが命に導くことをこの光は証しています。

 「最後の眠り」としてマリアの人生の終わりを告げる伝統的な話がありますが、マリアは、死すべき人間のように死にました。エノク(参照:創世記521-24)やエリヤ(参照:列王記下2,11)のようにマリアを地上の命から死なずに天の命へ移したと思い込んでいる人に対して、1997年に教皇ヨハネパウロ二世はマリアが死んだことをはっきりと宣言しました。だが、神はマリアの体と魂を天に連れ戻しました。言い換えれば、死はマリアの体と魂を分裂させることができませんでした。罪はマリアに全く関係がなかったので、死も彼女に対して何もできませんでした。ですから栄光の体でマリアは天の喜びに入りました。マリアは神が与える栄光のうちに完成されました。

 天の栄光に入ることによって、マリアは私たちに聖性への道を教えています。罪が何も支配できない場所で、愛と命全てのスペースを占有しています罪と戦うために私たちは聖母マリアの助けを必要とします。黙示録はサタンに攻撃されている栄光に満ちた女の姿でマリアを私たちに見せています。マリアはサタンが殺そうとしている、今生まれて来ようとしている子どもの命を守ります。結局、サタンマリアに取り返しのつかない敗北をしました。このように、神の栄光の内にいて母マリアは私たち一人ひとりに対して、自分の母性を発揮します。それは私たちの死の時までです。母マリアの祈りは、人の体も魂も破壊するサタンの攻撃を退け、私たちを守ります。

 コリントの教会への手紙で、聖パウロは私たち人間の栄光ある運命を上手に説明しました。「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです・・・キリストは最後の敵である死も滅ぼされます。キリストは万物をその足の下に従わせたからです」。実に、エバと彼女の子孫に約束されたことが(参照:創世記3,15)完成されました。私たちは罪がもたらした死を味わい受けますが、私たちは復活してから、救い主であるキリストの栄光に与かるように召されています。神は被昇天の出来事を通してイエスを生んで育てた無原罪の母マリアをこの復活の力に与からせました。

 ですから、マリアの被昇天は私たちにとって喜び、希望と光の祝い日となります。神の愛がもたらした罪と死に対する勝利の喜びを叫びましょう。神が永遠の救いと栄光に与かる恵みを与えたことを知っている私たちは、溢れる希望を宣言しましょう。そして、信仰の光に照らされて心を尽くして、天の母、聖母マリアと共に、神に感謝しましょう。アーメン。





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